2022.12.5
私達の時代は第3次ベビーブームで、とにかく人が多かった。
中学1年の頃は13クラスあったから、同じクラスになった子でないと、よっぽどの不良か、頭の良い子やスポーツの出来る子でなくては名前も顔も分からなかった。
悲劇は中学の中間テストに起こった。
私のいた11組は540人中29番だった私がクラスで一番を取ってしまったのだ。
2番の子は高校教師の娘さんで、父親に
「バレーをやっている暇があったら、勉強しなさい」
と言われ、泣く泣くバレー部を辞めた子だった。
私はその子に
「中田さん、どんな勉強方法しているの!?」
と、詰め寄られたが、バスケットボール部で、帰っても、バスケットボールを練習し、ピアノをやり、夜中、ヘッドフォンでエレキギターをやる日々。
勉強など一切した事がないから、私の方が知りたいわと思った。
周りから、エレキギターを担いで学校に来て、バスケットボール部で練習をして、口を開けると、アルフィーと高見澤の事しか言わない私が何故?クラスで一番になったのか、不思議がられても仕方がない。
私は問題を見た時に答えが解ってしまったのだ。
多分に、小学校4年から、ラジオの基礎英語と珠算と本を読んで来たから、解ってしまったのだろう。
あと、学習塾に通っていたからだ。
私の勉強のやり方はまずドリルの答えを見てから、問題をやる始末。
全く持って勉強になっていない。
偶々、中学の一番最初のテストでクラスで一番を取ってしまい、皆を驚かせてしまった。
全く勉強をして来なかったから、成績が下がろうとも、勉強の仕方が分からずにいた。
歴史は吉川英治の歴史集で、解っていたから、中学のテスト位は直ぐに答えられた。
授業中に喋っていて、先生に当てられた時も、数学は珠算をやっていたので、掛け算、割り算の万くらいの問題ならば、暗算で答えられた。珠算では億や兆の世界だから、大した事はない。
英語だって、皆、アルファベットをやっている時には普通に話せる位だったので、何を今更と感じていた。
中にはそんな私に対抗心を抱いていた男の子もいたのを後で知る。
本当は試験を受けて、違う小学校へ行くつもりだった。
しかし、抽選で、落ちてしまったのだ。
私が付属幼稚園を出たというと、その教師の娘さんが
「私が落ちたのに、何故?」
と言われる位、函館では有名な幼稚園だった。
そこに入ると、安泰と思われているからだ。
何故か私はその幼稚園を首席で卒園したのだ。
世の中、分からないものである。
周りは皆、医者や弁護士や会社社長のご子息、ご令嬢の中、普通のサラリーマンの娘が入ってしまったのだから。
社会人になっても、ヤッカマれた。
「付属幼稚園出ても、こんな所に働いているんじゃな〜」
と、ダイの男に嫌味を言われた。
恐るべし、付属幼稚園の力は。
誰しも入りたかったのを私は知らないで入り、トップで卒園してしまったのだ。
眠ってでも、函館で一番偏差値の高い高校に入り、東大へ行き、さぞかし立派になるだろうと誰もが思っていた。
しかし、上に居ると後は転落しかない。
猿の様に滑って落ちて行った。
当の私自身は痛くも痒くもないが、周りは私の落ちぶれ様にもまた、驚いた。
そんなこんなで、今の私が居る。
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