父の呪縛·母の執着 Vol.2

2022.12.18

 私は教師の薦めで東京の大学に行くつもりだったが、両親が反対した。

 その頃、父は家に帰って来なくて、母は

「私を捨てるのかい?」

と、犬の様な目をして、私に訴えるので、函館に居るなら、どうでもいいやという気持ちになり、父が支配人をしている系列のホテルに勤める事になった。

 後にブラック企業だと分かり辞めるが。

 皆、中田支配人の娘として、私を見た。

 ある男性の先輩が

「お父さんと結婚すればいいのに」

 「だって父ですよ」

 「カッコイイんだから、いいじゃない」

と言われる始末。

 社内恋愛はしたくはないが、寄って来た男の子もいたが、中田支配人の娘と聞くと、諦めて離れて行った。

 朝7時から、夏場の繁栄期には夜8時過ぎまで働いた。

 同じホテルで勤めている友人の半分の給料だったし、毎日、マネージャーが私のお尻を触り、挙句の果てには

「お前は2万でいいな」

にブチ切れた。

 今でこそ、セクハラ·パワハラだと言われるが、私が若い頃は女性は我慢しなくてはいけなかった。

 生憎、父は家に帰って来なかったので、ホテルで会うしかなかったから、父にも言えずに夏のボーナスを知って、余りの低さに辞めた。

 毎日、お尻を触られ、働き詰めで、それに見合った給料では無いのに、人間として、疲れたからだ。

 就職するならば高校の求人サイトから、すれば良かったと後悔しても、遅かった。

 19歳の私は最悪だった。

自分の道も歩めずに毎日、お尻を触られ、人格否定までされて、深く今でも、心の傷になっている。

 周りは蝶よ花よと育てられたと、考えているから、冷たくされた。

 助けて欲しいと誰にも言えなかった。

 働いて働いて、心も蝕まれて、自分が無くなって行った。

 兎に角、母を養うだけの給料が必要だった為、昼間、事務をして、夜はコンビニのパートをして働いた。

 そこでも、誘惑があった。

パートの女性に

「貴女、こんな所で働いてないで、コンパニオンやりなさいな。貴女だったら、幾らでも稼げるよ。男性とただ、お寿司食べるだけでいいんだから!」

に、私は丁重にお断りをして、仕事2つ掛け持ちした。

 コンパニオンになってしまうと、人生負けた気がしてならなかったからだ。

 人として、恥ずべき事をしたら、人生負けだ。

 土方をしても、コンパニオンやホステスになったら、負けだと感じていた。

 私は真剣に生きていたい。

どんなに貧しかろうと、クラブのママになんて落ちぶれたら、人生負けだ。

 未来の自分に恥ずかしい生き方だけはしたくはない。

 そんな私も病気になり、土方はやれないが、母を養わなくてはいけない時に、ホステスになろうと一度だけ考えた事がある。 

 そんな時、生き別れの父が

「お父さんが悪かった。もう一度、考え直してくれ!こんな父の話しは聞く耳を持たないだろうが、昼の明るい時に心をまっさらにして考え直してくれ」

と、赤ペンで長々と手紙が届いた。

 水商売はオモテ向き華やかに見えるがこれから、不況が来て知り合いのママさんなどが、ヤクザにお金を借りたりして、酷い世界だからと。自分は遊んで来たから、水商売の裏の裏まで知っているから、のぞ美は夜の世界を見てはいけないと。

 どんな事があっても、女性を売りモノにして、男性に媚びを売る仕事だけはやらないでくれと。そうなったら、おしまいだと。

 あの父が、私に謝ったのはあとにも先にもこの時だけだ。

 暫くして、お金も何とかなり、母も私も食いっぱぐれが無くなり、事無きを得た。

 私は恵まれている。

困った時には誰かが何かで助けてくれるのだから。

 両親は最終的に離婚はしなかった。

 生き別れの父が亡くなり、母は認知症になり、後を追うようにあの世へ逝った。

 母の介護で、私はようやく大人になれた気がした。

 それまでは私は子供だったが、母が認知症になり、私を大人にしたのを確認してから、私に迷惑を掛けない様に旅立った。

 今でも、私の手帳には父と母が私に宛てた手紙の一部を入れて持って歩いている。

 この両親の子供で良かったと今では感じている。

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