老老介護

2023.1.27

 私は生き別れの父が孤独死してから、母の認知症はどんどん進んで行った気がする。

 矢張、夫婦だったのだ。

 認知症の母は私を娘という事も分からなくなった。

 ケースワーカーさんが付き、ショートスティを入れたりして、私の負担を軽くして下さった。

 独りで、ビールと自分で作った焼き鳥を食べていたら、立とうとしても、立てなくなり、床を這って部屋まで行った。

 意識はあるが身体が動かないのだ。

 秋田の4月はまだ寒い。直ぐ近くにあった、ヒーターを付けて、ベッドから毛布を引っ張り暖をとった。

 汚いが尿は垂れ流しである。

この日程、オムツをしておけば良かったと思った事は無い。

 偶々、24時間付いているチャンネルで、テレビを付けていたから、今が何時かも分かった。

 こういう時に限って携帯は向こうの部屋だった。

 大声を出して、助けを呼ぼうか悩んだが、明日の午後には母が帰って来るので、ケースワーカーさんを頼みに待った。

 尿で背中はびしょびしょで1日で床擦れが出来た。

 午後にピンポンがなり、大声で、意識はあるが身体が動かない事を伝えて鍵を開けてもらった。

 母はショートステイ先に一度返して、私はベッドに運ばれた。

 1日、寝るにも具合が悪くて寝れずに主治医の元へ。

 採血の結果、入院。

車椅子で、入院先まで車で運ばれて、ICUに入った。

 横紋筋融解とたこつぼ型心筋症になっていたのだ。

 食事は母の事ばかりで、自分は焼き鳥が殆どで、安定剤にアルコールが良くなかったらしい。

 自分が集中治療室を必要だとは考えなかった。

 入院した次の日、母が骨折したと聞き、一週間、早く退院して、医者を困らせた。

 自分が倒れている場合ではないのだ。

 そして、施設が決まり、離れて住むと、私を娘だと分かる様になった。

 施設に入ったからといって、休めるかと言うとそうではなく、尿漏れシートを買って来て欲しいだの、書類にサインと印を押しに行ったりと忙しかった。

 母は私を大人にしたのを見守ってから、眠ったまま逝った。

 コロナで面会制限があり、明日、見舞いに行く前の日に逝った。

 だから、私は両親の死に目にあってはいない。

 母の亡骸を見ても涙も出なかった。

 「ばんざーい‼️」

と、良く77年生き切ったと、あっぱれだった。

 介護は大変だ。しかし、大変の中に笑いを見つけていけたら、乗り越えられる。

 私は母との会話が成立しない事に思わず笑ってしまった。

 大変だったが笑いを見つけられた。

 今、介護で大変な方。難しいだろうが、その中に笑いを何とか見つけて欲しい。

 そして、人を頼って欲しい。

決して、自分独りで抱え込まないように。

 明けない夜は無い🌹

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