2023.4.1
エイプリルフールに父は産まれた。生きていたら、75歳だ。
父は奥尻島出身で、中学生で函館に出て来た。
5人兄弟の長男だったが実家の奥尻ハイヤーを継ぎたくなく、本当は東京に出たかった。
しかし、せいぜい札幌か函館止まりだった。それだけ島国育ちは不便だった。
身の回りの事が出来ない日本の男性と違って家事、洗濯等全て出来た。そこいらへんの調理師より料理は旨かった。
奥尻ハイヤー出身なので、車が故障した時、自分で直せた。
これは祖父の考えで、自動車を奥尻では売っていないし、直す所も、勿論無いから、函館まで出すのにお金が掛かる。ならば自分で直そうという考えになる。不便が発想力を与えたのだ。
だから、何でも自分でやる。
身体が弱かった母の代わりに幼稚園まで、私にご飯を作って連れて行き、会社の部下に迎えに行かせて、仕事が終わるまで、父の職場に居た。周りの人は私を可愛がってくれた。
父が23歳の時に私は産まれた。父は20代でホテルの支配人を任されていた。
だから、私も出世するのは簡単だと思っていたが、他の人は40歳で良くて部長、課長になるのが当たり前だった。
父しか見て来なかった私は40歳で部長と威張っている人を大したことないなと感じていたが、父が出来すぎたのだ。
父は女癖は悪かったが、セクハラなどはしない人だった。男として、恥ずべき事はしない主義の人だった。
そんな父を見て来たから、私に寄って来る男性をどこかで父と比べていた。
20代で主任になったからと、意気揚々と私に告白して来た男性がいたが、私にしてみたら、大した男ではない。
私が好きになる男性は出世などに興味がない人ばかりだった。どこかのんびりした人が好きである。父と張り合っても勝てる男性はいないのだから。
私の恋愛に父は大きな影響を与えてしまった。
いずれ家を出て行き、妻子を捨てるのだろうと。
父は女としてではなく、人として私を躾た。駄々をこねた時、ビンタをされて、その後、車で、山に連れて行き
「痛かったか~❓」
と言った。
殴った後のフォローもする父だった。悪いのは私だけど。
勉強しなさいと私は親に言われた事がない。気付いたら、小学生で、ピアノと珠算と書道と学習塾にラジオの基礎英語をやっていた。
父は三島由紀夫フリークで、初版本の全集の上に割腹自決した時の日本全国の新聞の切り抜きが置かれていた。
他に日本文学全集、世界文学全集、吉川英治の歴史集など、図書館に行かなくても良い位の本に私は囲まれて育った。
父が小学生の頃から、お小遣いで、一冊、一冊ためた本だ。
本だけではなく、音楽も好きで、ピアノやギター、トランペットが弾けた。自分のレコードまで作ってしまう程だ。
カメラが趣味で、物置を暗室にして、現像までする。モノクロ写真を気に入っていた。
天知茂の写真をパネルにして飾っていた。父が撮った写真である。
父は何処にでも、顔を出す為、函館のお偉いさんで父を知らない人はいなかった。
だから、働いた時に
「中田さんの娘さん⁉️なら、仕事出来るね❗」
と、行く所、行く所で言われた。
秋田に来てから、それがなくなったので、肩の荷が下りたが。
父とどうしても比べてしまう私はまだ、ファザコンなのだろう。
コメントを残す