私の父について

2024.10.14

 8年前の今日辺り、私の父があの世に行った。

 本当の亡くなった日にちは定かでは無い。

 妹が言って欲しくはなかったが

「貴女のお父さん、腐敗していたわよ。それにゴミ屋敷だった」

と、電話で伝えられた。

 私の父は普通の専業主婦以上に綺麗好きで、ゴミ一つ無い部屋に住む人だったから、かなり辛かったのが解る。

 しかし、娘の私に電話を掛ける気は出なかったのだろうし、誰かに助けを求める事も出来なかったのだろう。

 私は父に

「親孝行しようと思うなよ。ノンが3才で十分親孝行したんだからな❗」

と、言われた。

 私が産まれる時、私か母かどちらの命を取るか❓と医者に訊かれたが、どちらもと祈ったらしい。

 そして

「お母さんがお風呂に入れても、泣くのに、俺が入れたら、大人しく入っていた❗」

と、自慢気に私に話した。

 私が45歳まで生きていたが、24歳から父には会っていない。

 本当はずっと交流がなかった筈だか、父がくも膜下出血で倒れたと、離婚していなかったので、家の電話番号を調べて、函館市役所から母に電話が来て、生きている間にあれだけ死ねばいい❗と思っていた父だが、実際、危ないと分かると、何とか生きていて欲しいと、カードを送ったのが、きっかけで、父との文通と電話のやり取りが始まった。

 父は小学6年生で、一人で函館にやって来て、戸籍謄本を出す事が出来た人だった。

 殆どの日本人はいないであろう。

 幼い頃に私は父から、包丁の持ち方、出汁の取り方、洗濯機の使い方、洗濯機が壊れた時に選択板の使い方を教わった。

 私が息子でも、父は教えただろう。

 私が幼い頃に母が死に目に2回遭っていて、自分の身にも何か遭ったら、一人娘だから、自分の事位、自分で出来ないと駄目だと思ったからである。

 今の親で自分の子供たちに自分の事は自分でやりなさい❗と教える親はいるだろうか❓

 教育熱心なお母さんなら、せいぜい娘さんならば教えるだろうが、息子には全く教えないから、男性は駄目なのである。

 それと同時に帝王学も私は教わった。

 だから、殆どの男性よりも、私が仕事が出来るのは当たり前である。

 45歳まで電話を掛ける仲だったが一度も

「まだ、結婚しないのか❓」

「付き合っている男性はいるんだろ❓」

等、訊いた事はなかった。

それは母も同じだった。

 父にしてみたら、自分の一人娘が下手な男と一緒になってしまうより、一人が良いと思っていただろうし、私が選ぶ男性はそれなりに自分の眼鏡にかなう男性を選ぶだろうが、そのような男性は余りいない事が分かっているから、何も訊かないのだろう。

 正直、私が社会人になって、カルチャーショックだったのが、ルックスだけでも、父にタイを張れる男性が誰もいなかった事である。

 皆、世の中の大人の男性は父みたいだろうと思っていたから、かなりのショックだった。

 これでは彼氏どころか、男友達すら、私は出来ないと分かってしまった。

 何処の出身でも、函館に住んで、働いていて、私の父を知らないという人は周りの仕事が出来る人から

「矢張、仕事が出来ないんだな❗」

と、思われる事すら、分からないバカな男が私よりも、仕事が出来ると思い込んだり、いきなり、付き合って下さいと言ったり、私は

「この男性、殺されたいのかしら❓」

と、思っていたし、その男性の命とプライドを守ってあげる為に同じくバカな振りをしてあげていた。

 秋田に来ても、それは変わらず。

 若い男性や外国の男性は父よりも、背は多少高いが背が高いだけで、男としての魅力は全く無い。

 ルックスだけでも、タイを張れないのだから、頭の良さと仕事の出来をプラスしたら、天と地の差である。

 今時の若い男性は全て敵わない。

 女性を守る気など全く無いし、自分の都合のいい言い訳ばかり並べ立てて、全く仕事が出来ないし、しようとしないから。

 男としての魅力が全く無い。

 こんな父を持ってしまった一人娘の悲劇である。

 父は私にはイヤらしい事を言うが、会社や他の女性たちには全く言った事が無いし、独身の女性や男性に

「結婚しないのか❓」

等、失礼な事は言った事が無い。

 そこは自慢出来る。

 人の人生に口出ししないし、私の人生にも口出ししない。

 父は私を買い被っていたのだろう。

「のぞ美なら、独りでも生きて行けるし、素晴らしい男性とも結ばれるから、どちらでも大丈夫な娘だろう❗」

と。

 父よ、あなたの希望どおりの娘では無いかも知れないけど、私なりに、生きております。

 今夜は私のあげた日本酒を呑んで過ごして下さいませ🌹

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