2025.2.18
私は家族で年越しをしたのは小学6年生が最後だという事はハッキリ記憶にございます。
その年の紅白歌合戦にアルフィーが最初で最後ということで出演するので、父と一緒に晩酌をしながら観ていた事を覚えております。
それは何故かと申しますと
「あ~、高見沢君、蕨市出身だったんだ❗ノン、蕨市は日本で一番小さい市で昔、ある武将が藁で火を燃やして、当て字で蕨になったんだよ~」
と、説明してくれて、初めて蕨市を知ったし、その由来も父が教えてくれたからです。
その後、父と一緒に過ごした記憶が全く無いので、次の年に愛人が出来て家を出たきり、2階建ての一軒家の家のローンを1円たりとも入れ無いのに、愛人と別れると家に帰って来て
「ここは俺の家だ❗おまえは出て行け~❗」
と、母に手を挙げる様になり、始めは夫婦喧嘩があまりにも酷かったので、父が家にやって来ると、私は自室の鍵を締めて、二人の言い争いの声が聞こえない様にヘッドフォンでアルフィーのアルバムを掛けて
「これは夢なんだ❗」
或いは
「高見沢さん❗今すぐ私を助けて~❗」
と、心の中で叫んでおりましたが、父は躾では私を平手打ち出来るのですが、それ以外の理由では私には手を挙げられ無い事に気付いてから、母の前に立って
「おまえが出て行け❗」
と、父と私の一騎討ち。
あまりにも私の手にを得なかった時、とうとう警察を呼びました。
父は警察官に両端を抱えられながら、後ろを振り返り、私に笑顔で
「ノン。おまえが呼んだのか❓」
と、そのまま家を出た時のあの笑顔が亡くなった今でも忘れられません。
よく
「私のお父さん、交通事故で亡くなったの」
や
「俺の親父、自殺した」
と、言っていた同級生の女の子や男の子達がおりましたが、周りの子供達は
「可哀想に」
と、言ってましたが、私は寧ろ羨ましい❗と思っておりました。
突然、やって来て、母に暴力をふるい、家に一円も入れない父を私は何百万回も心底
「さっさと死んでくれ❗」
と、思っていたからです。
しかし、秋田にやって来て、時が経ち、父の死亡の知らせを聞いた時、本当に悲しかったけど、素直に泣く事が出来ませんでした。
悲しいのも本当の自分ですし、死ねばいい❗と思っていたのも本当の自分です。
人間は泣きたい時に涙を出さないと、息苦しくなる事が父を亡くして、約1年ぐらい、何時も息苦しくて分かりました。
普通に泣いていたら
「どうなされましたか❓」
「父が亡くなったのです」
「それはお辛いでしょう❗」
と、言われるのが普通の人間関係でしょうが、泣いているだけの私ならば死ねばいい❗と思っていた私を隠す事になります。
人は騙せても、自分には嘘は付けません。
ですから、父が亡くなった悲しみを深く感じたのも真実の自分ですし、死ねばいい❗と心底思っていたのも真実の自分です。
この両極端の私の気持ちを表現する事が自分でなかなか出来ませんでした。
ですから、私に言わせたら、身内が亡くなって泣ける人は幸せなのです。
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