一人娘なのに父と母を看取れなかった

2025.6.11

 私は24歳の時、母を連れて函館を出た。

 引っ越しではなく、シビック一台に詰めれるだけの荷物を詰めていきなり出た。

 そして、東京か母が産まれた秋田に行こうと思い、母が車の運転をしていたので、秋田にやって来た。

 そうして色んな事があり、私の両親は離婚していなかったから、函館に居る父がくも膜下出血で病院にいるから、母に函館市役所から電話が来て何とかして欲しいと言われたが、私も入院していたから、母はこちらこそ何とかして欲しいと言って、入院費用等、父の面倒は見れない事を伝えた。

 偶々、腕の良い医者に手術されて、父の命はとりとめた。

 生きている間にあれだけ死ねばいい❗と数え切れない程、思っていた私だが、父が逝ってしまうと感じると、何とか生きていて欲しい❗と願ってしまった。

 そして、父にカードを送ってから、私と父の文通や電話のやり取りが始まった。

 何時も電話を切る時

「お母さんを頼むな❗」

と、必ず言って切る父。

 私はその度に

「だったら、仲良く一緒に暮らせば良かったのに❗」

と、毎回、思った。

 父との最後の電話はたわいもない喧嘩で終わった。

 3カ月後位に父の名前で着信があり、父の妹が電話を掛けて来たので、私は妹が事実を伝える前に何があったのか分かった。

 父は書棚に倒れてあの世に逝ったらしい。

 妹が

「ゴミ屋敷だったわよ❗」

と、私に言ったので、私の父は兎に角、綺麗好きで、普通の専業主婦よりも、部屋を綺麗にする男性だったから、苦しかった事が察せられる。

 しかし、秋田に居る娘には言えなかったのだろう。

 妹が父を火葬して、前からの父の遺言で墓も戒名もいらない❗津軽海峡に骨を埋めて欲しい❗との事で、私も母も一切、タッチできなかった。

 父が亡くなってか、母の認知症もどんどん進んで行った。

 母は介護施設から、病院に入院して、約1年後に看護師さんが見回りに来た時は息をしていなかった。

 私は栄養点滴で生きている母の主治医に

「胃ろうにするのなら、自然にして下さい」

と、伝えていた。

 私が後にも先にも最大の決断だった。そのまま、見殺しにするという事を医者に伝えたのだから。

 母は多分、私にこれ以上責任を負わせまいと、胃ろうになるまえに、眠ったまま逝った。

 だから、私は父も母も死に目には会えなかった。

 私の両親はどちらも私に迷惑を掛けないで、あの世に逝ってくれたと思っている。

 父が亡くなった後に妹から送られて来た、父にしては珍しくぬいぐるみが父の顔になって、母の前に出て来たらしい。

 母は

「あんた死んだんじゃなかったの❓」

と、言ったら、ニコニコ笑って消えたそうだが、私には父も母も夢枕にすら出て来ない。

 霊感が強い私に怖がらせ無いように出て来てはくれないのだろう。

 父と母は生きている間、色々あったが、矢張、心底愛しあって私が産まれたし、今も仲良く過ごしている事だろう。

 生きている間に素直になれなかった分、今は出逢った頃のようにアツアツだと、娘の私には分かる。

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