Days gone by

2024.6.6

 私は高見沢俊彦みたいなミュージシャンになる事が目標でした。

 ですが、気付けば良かったのです。

 私は東京に行って、大学に通っている余裕が無い、家庭だった事を。

 幼稚園の頃、一番初めになりたい職業は学者でした。

 今で言うと科学発明家です。

 「メルモちゃんみたいな、飲んで死なない薬を母に作ってあげるからね❗」

と、自信満々に付属幼稚園、付属小学校、付属中学校、女性では偏差値が一番高い中部高校へ行って、東京大学に入って、学者になるものだと思っておりました。

 父に

「望遠鏡が欲しいのだけど」

と、伝えると、何故か顕微鏡を買って参りました。

 私はワラジ虫をつかまえて、顕微鏡を見ながら、右手でワラジ虫を大きく描いたり、今では残酷だと思いますが、カエルをつかまえて、お腹を切って、内臓を調べたり致しておりました。

 大人になってからも、母に言われました。

「貴女は学者になって、私に死なない薬を作ると言ってくれた優しい娘だったのに」

と。

 私の母は身体が弱くて、銭湯に一緒に行くと、帰りは必ずしゃがみ込んでしまうので、私はとにかく、心配でした。

 死に目に何度も遭っており、三途の川を見ております。

 ですから、娘の私は心配でした。

 次に幼稚園に入ると幼稚園の先生。

 その頃から、歌が大好きで、父のベンチャーズのLPレコードを大音響でかけながら、即興で歌詞を付けて、ベッドをステージ代わりに跳ねながら、歌っておりました。

 ある女の子と一緒に東京に行って歌手になろうと家出の計画を立てて、もう1人の女の子に

「歌手になるから、函館を出て行く❗」

と、言ったのですが、当日になって、その女の子が

「やっぱり止める」

と、6才の女の子には無理でした。

 それからずっと、中島みゆきの”テキーラを飲みほして”等、テキーラなんか飲んだ事が無いのに、酔っ払った振りをしながら、歌ったり、河合奈保子と握手してもらい、ミーハーな私は好きになったり、父が山下久美子のサインをもらって来て、好きになったり、中森明菜の歌を歌っておりました。

 父はフランク永井や東海林太郎やポール・モーリア等が好きだし、母は桑名正博が好きで、良く、レコードをかけながら、歌っておりました。

 私が俊彦を好きになって、フライングVのエレキギターを中学1年生で買ったのは多分、日本で初めてだと思います。

 今では女性も弾いておりますが、私の時代はアマチュアバンドでも、ベビーメタルをやっている、大学生以上でなければ、あのギターを持つ事自体、とても勇気がいるからです。

 フライングVはギターケースもV字型ですから、中学校の制服を着て、自転車をこいでいると、男子高校生や社会人の男性が私を二度見します。

 私は手が小さいので、コード弾きは無理だと思ったので、ギターソロばかりやっておりました。

 数々の早弾きやライトハンド奏法ばかりやっていたので、ライトハンド奏法をすると、周りの男性が驚くのです。

 普通はコード弾きをやって、早弾きをゆっくり出来てから、早く弾けて、ライトハンド奏法をするからです。

 中学生の時、歌が歌いたいという女の子とバンドを作ったのですが、ボーカルとエレキギターの私だけ。

 ライブハウスを自腹で借りて、友人達を呼んだのですが、当日、手伝ってくれる男の子が空手で指を折ったと、多分、嘘でしょうが、エレキギターの私とボーカルの女の子だけでは、ライブにならないとみんなに帰ってもらいました。

 今、思うと、たった二人でも、演奏すれぱ良かったのですが、そんな勇気はありませんでした。

 ライブハウスの店長に

「大変、申し訳ございません❗」

と、謝って、お金だけお支払致しました。

 チケットは全て友人にプレゼントしたので、お小遣いはマイナスになりました。

 高校2年生で、ようやく文化祭で2曲、披露出来ました。

 お客様は一年の担任の男性教師と仲の良い社会科の男性教師だけ。

 他のメンバーはそのお二人には教わっておりませんから、私の為に忙しいところを来て下さったのだ❗と、分かり、私が会長だったので

「2曲だけですが、聴いて下さい」

と、言うと、たった2つだけの野太い拍手が鳴り響きました。

 終わったら、また、2つだけの野太い拍手。

 ずっと嫌われていたと思っておりましたから、胸がいっぱいになった事を覚えております。

 私が卒業する時、国語の男性教師と三人で、ホウキを抱え、”星空のディスタンス”を歌って下さいました。

 私の担任の先生も他の先生も私が高見沢俊彦を好きだと分かっていたのです。

 そうして、私の夢を応援致してくれました。

 てっきり、東京の大学に行けるものだと思っていたら

「ウチにはそんなお金等無いし、一人娘だから、函館で働きなさい」

と、言われ、大学に行けなくても、せめて東京で働かせてくれないかと言ったのですが、それも駄目でした。

 家を出て行こうと思ったのですが、母を捨てる事になるのが、私にはどうしても出来ませんでした。

 どうせ函館で働くのなら、高校から就職募集でやっていたら、銀行員やら、証券会社やら、デパートの受付やら、私の通っていた高校は引く手あまただったのに、父の関係のホテルで気付けば働いておりました。

 そこで、周りの男性があまりにも仕事が出来ないし、ルックスですら、父を越えてる人が誰一人いない事にカルチャーショックを受けました。

 みんな、知っている歌は流行りの歌ばかり。

 洋楽なんか聴いている人が誰もいないし、三島由紀夫やへルマンヘッセすら知らない。

 定時に会社に来て、適当に仕事をして、家に帰ってまで、仕事の事を考え無いし、練習もしない。

 そんなので、お給料もらったり、人様からお金をいただいてもいいのか❓と、私は思いました。

 そこはあまりにも酷かったので、半年で退職して、アルバイトの2つ掛け持ちしたり、色々な仕事を致しました。

 しかし、何処へ行っても尊敬出来る人には会えず、やりたい事で、お金を稼いでいるのではないのですが、私はそれなりに、誰よりも家に帰っても、その仕事の勉強やら、音楽を聴きながら、本を読んだり致しておりました。

 歌が駄目なら、詩を書こうと、同人誌に20年以上、出しておりました。

 初めてお付き合いした男性が実はお母様がアパート経営をなさっていて、本当は自分が働かなくても良い位のお金持ちだったのですが、母を連れて函館を出て秋田に参りました。

 お付き合いして下さった男性に

「のぞ美さん。いつも、あんな働き方しているの❓僕はのぞ美さんに倒れられる方が心配だから、もっと他の人たちみたいに手を抜くところは手を抜かなくちゃ」

と、一度だけ、心配して注意されました。

 その男性はボブ・ディランとジョン・レノンのレコードを全部持っていて、おまけに友部正人のレコードを持っていたのです。

 その男性に

「悪いけど、母と私をかくまって❗」

と、言っていたら、二人をその家に入れてくれたでしょうが、私はどうしても、頼れない質で、サヨナラも言わずに離れてしまいました。

 素晴らしい男性だったから、今は美人で優しい女性と結婚して、子供に優しく、素晴らしい家庭を築いているでしょう。

 秋田に来ても、素晴らしい男性達と出会いましたが、私の心変わりで別れてもらいました。

 矢張、自分のやりたく無い事で、必死にお金を稼いで来たから、私の精神(ココロ)を壊してしまったのです。

 あの時、違う道を行っていたら❓と考えても、私はまた、同じ事をするだけでしょう。

 病気になったのも、自分が通らなくてはいけない道だったし、出会いも別れも必然的だったのです。

 過ぎ去った日々を憂いているのは私らしくないので、もう一度、自分のやりたい事で、自給自足出来るように生きて行こうと思っております。

 生き別れの父の孤独死も、母の認知症も、私の情緒不安定人格障害も、挫折も、全て私が受け入れなくてはいけない事だったのです。

 いざ、前に進もう❗

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